月別アーカイブ: 2015年1月

「看護で世界を変える」という理念のもと、世界と日本をつなぐ

Q,看護に興味を持たれたきっかけは?

起業6父の仕事の関係で、私はフランスで育ちました。染色体異常で産まれた弟の治療を目的に家族で日本に移り住んだのですが、私は日本の風土になじめないまま高校生になりました。高校時代は数学が好きで、統計などに興味を持っていました。もしかしたら弟が継続的に医療機を受けていた影響があるのかもしれませんが、大学では医療統計の勉強をしたいと思うようになり、「看護大学で公衆衛生でも勉強しようか・・・」と思った私は、当時住んでいた東京から離れたいという意志も手伝い沖縄県立看護大に進学することを決めたのです。
当初は看護師にさほど興味がなかった私。しかし沖縄でアメリカナイズされた看護師がひとりで田舎に駐在し、地域の人々の健康を護っている姿を見て感銘を受けて興味を持ち始めました。公衆衛生の立場から看護師の働きを見たときに「看護ってすごいなぁ」と、はじめてその役割や価値を実感し、そのとき看護師になろうという意識が芽生えたような気がします。

Q、卒業後の進路を教えてください

卒後は看護師と保健師の資格を取りました。そして「もっと看護という世界を知りたい」と思った私は、独特な看護の風土を肌で感じたいと考え、歴史ある病院に就職。また同時に大学院にも進学しました。就職先では、自分の性格に合っていると考え救急外来を希望、そして大学院では「看護とは何か?」という看護の概念を理論的に突き詰めたくて、聖路加看護大学を選びました。
病院では年功序列がまかり通り、いくら若い人材が知識を持っていても、それより経験が優先される風土でした。「質の高い看護を提供するには経験が最優先ならば、その経験を言語化して伝える術が必要だ」そんなことを考えながらも、自分は看護の風土が嫌いではなく、その風土を、そして看護師の経験を大切にしなければいけないような気がしていました。

Q,留学をされたと聞きましたが・・・。

そうなんです。大学院の2年目で、研究のために仕事を休職して1年間アフリカに留学しました。その研究は中高生のHIVに対する意識調査で、行き先はタンザニア。知り合いもいない中、10万円を握りしめて現地に入り、大学の教授のドアをたたいて回りました。何とか協力してくれる教授が見つかり、協力してくれる中高生も見つかって、研究は順調に進んだのですが、何せお金がありません・・・。そんな時に出会ったのが日本の医療機器メーカーが、現地の医療に関する情報を収集したいという話でした。
私は、日本の人たちに現地の人を紹介するコーディネーターになり、2カ月ほど協力したのですが、その時、当時の私では想像できない謝礼をいただいたのです。自分にとっては知り合いを紹介したり知っている情報を伝えるというような簡単な行為だったのですが、相手にとってはそれが貴重な情報になったということを実感し、「誰かが持っている価値を、それを求める見知らぬ誰かに届けることがビジネスなんだ」と、当り前だけれど実感しにくいビジネスの本質に触れた気がしました。
また、アフリカではろうそくの光で論文を読んで勉強する学生たちに出会い、彼らの学びに対する貪欲さや生きる強さを目の当たりにし、学ぶことへの価値観が変わりました。

Q,帰国後、看護師に復帰した話を教えて下さい。

研究を終えて日本に戻り、元の職場の救急外来で勤務していたある日、救急外来でDICの患者さんを受け入れました。医師が2名、看護師は私1名で処置を始めたのですが、顔を見ただけで状態が悪いことは推測でき、検査データや血液ガスの値を見ると、助からない命であることが予測できました。
あたりまえのように挿管をしようとする医師を前に「この人はきっとこのまま逝ってしまう」と思った私は、医師に対して「2分間を僕にください」と依頼し、ベッドサイドに奥さんを呼んで面会をしていただきました。患者さんは奥さんに、今後やってほしいことを告げ「これまで一緒にいてくれてありがとう」という言葉を残し、奥さんは涙を流してこの言葉に応えました。そして2分が過ぎて挿管し、その場の命は取り留めましたが数日後、やはりその方は帰らぬ人になりました。
奥さんは「あの2分があったからこれから前向きに生きていける」と。私は看護師としてデ身体面をアセスメントして予後を推測し、このまま死にたくないという本人の精神面と家族という社会面に介入しました。このとっさの行為は、私の中の理論と現場が一致し「もう自分は看護師を辞めてもいい」と納得した出来事になったのです。

Q,そして起業を決意されたのですか?

起業6_2長く看護師を続けるつもりはなかったので「自分にしかできないかとは何か?」という自分の価値を模索し始めました。すぐに起業したわけではなく、まずは個人で動きだしたのですが、私にできることは、日本の人が求める海外の情報を入手したり、逆に海外の人が求める日本の情報を提供したり、また人と人をつなげたりすることなど。たとえば海外で病院を創りたいという場合、日本の医療や看護の情報を現地の人に提供できます。そんなことをしているうちに、日本の看護は海外で大きな評価を得ることが出来るとわかってきたのです。
海外の看護は身体面の評価が主ですが、日本の看護は身体面だけでなく、精神面や社会面も同時に自然に評価し、介入しようとします。日本の看護師は多面的に評価することが染みついているし、日本人の勤勉な資質も評価される由縁でしょう。だから日本の看護が世界に流通すれば、世界の人たちを救うことができると考えるようになったのです。そして起業を決意しました。

Q,現在のお仕事を教えてください

多くの人を救うには、さまざまな力が必要になります。私一人では小さな力なので、今は株式会社にして看護のプラットホームをつくり、必要なところに、必要とされている能力を持つ看護師をマッチングさせるような仕事もしています。
それ以外にもいろんな役割を担っていますが、私の目標は、アジア・アフリカ・中東地域などに、日本の看護を持っていくということ。そうすることで多くの命を救うことができる、日本の看護が世界を変えることができると実感しています。
今、看護を学ぶ読者のみなさんにも、日本の看護の価値を実感し、自信を持って日々自分を高める努力をしてほしいと思います。そしてたくさんの人の命を救ってください。

岡田悠偉人さん (看護師・保健師・疫学研究者)
NEW NURSING株式会社 代表取締役 

※本紹介は、メヂカルフレンド社「クリニカルスタディ」2013.10月号に掲載されたものです。

誰もが気軽におしゃべりできる高齢者の『居場所』をつくる

Q、看護師から起業を志されたきっかけは?

起業5新人看護師のころは急性期の病院で勤務し、急性期看護の知識や技術を学びました。その後、高齢者の方が多い病院に移ったのですが、そのとき「退院して家に帰ると家族に迷惑がかかる」と話す高齢者とたくさん出会ったのです。それがきっかけで「行き場のない高齢者を救いたい」という気持ちが沸々と湧き上がっていきました。
看護師と保健師の資格を活かし、地域で何かできないだろうか?と考えた私は、デイサービスを立ち上げたいと思うようになり、「パワーのある30代の今しかできない」と思って起業することを決意したのです。

Q,古民家デイサービスに決められたのは何故ですか?

デイサービスの開設場所を探し始め、古民家改修の事業をしている大学時代の友人に相談すると、彼女は広島県の山あいにある築約100年の古民家を紹介してくれました。初めは古民家とデイザービスを結び付けて考えてはいなかったのですが、その家に足を踏み入れると心が安らぎ「ぜひここでデイサービスをしたい」と思いました。そこで、資金を調達するために金融機関に事業企画のプレゼンテーションを重ねたところ、資金を借りることができるようになり、古民家を購入する目途が立ちました。そして一般社団法人TKC Groupを設立した後、古民家の改修工事に着工。昨年5月に古民家デイサービス『セカンドハウスYEAH YEAH YEAH』を開業しました。

Q,起業をするうえで苦労されたことはありますか?

まずは存在を知っていただくことに苦労しました。知名度ゼロからのスタートなので、作りでチラシをつくって、地域の人やケアマネジャーさんに手挨拶にまわったり、内覧会を開たり、病院にもご挨拶に行ったりして知名度を上げることから始めました。
私自身はデイサービスを開業する直前まで看護師を続けており、夜勤もしていたので体力的にかなりハードな毎日。それも苦労のひとつでしたが、夢の実現に向けて一つひとつ形にしていくプロセスは、とても楽しい時間でもありました。

Q,開設後は順調な日々だったのでしょうか

いいえ、初めは利用者さんの数が伸びず「この先どうなるんだろう?」という不安に押しつぶされそうな毎日でした。けれどもスタッフたちと一緒に「どうやって地域の人たちに良さを知っておらおうか?」と考え、動いた結果、半年後には少しずつ利用者さんが増え始め、人が人を呼んで、今ではたくさんの人たちが訪れてくださる場所になりました。
利用者さんが増えてきたときには「私たちがやろうとしていることは間違いじゃなかった」と思い、嬉しかったことは今も忘れられません。

Q,デイサービスのこだわりは?

起業5_3YEAH YEAH YEAHという名前には、「Y:野心(生きる力)、E:笑顔、A:感謝(ありがとう)、H:癒し(ほっこり)」という意味を込めています。デイサービスは元々、高齢者サロンが制度化していったものだそうですが、現在のデイサービスは癒しや安らぎが失われつつあるように思うんです。だから私は高齢者が気軽におしゃべりをしに訪れられる「縁側」や「お茶の間」のようなデイサービスをめざし、「おもてなし」の心を大切にて、利用者さんに喜んで帰っていただくことを心がけています。
また、同じ毎日の繰り返しを脱却し、少しでも違う時間を過ごしていただき、生きがいへとつながるよう考慮しながらも、看護師経験を活かして常に観察を行い、症状や変化の早期発見、家族への報告を徹底しています。

Q,仕事のやりがいを教えてください

起業5_2ご家族からの「助かっています」という言葉や施設に来られる方が「ここの若い人たちが頑張っているのを見ると自分たちも頑張れる」というようなお言葉をいただくことがあり、そんな言葉が日々の原動力になっています。
当施設はオープンして1年余りなのですが、最近は利用者さんとの心の絆が深まってきて、日々顔を合わせること自身がやりがいにつながっていますし、常勤スタッフは全員30代で高齢者の方への尊重の気持ちを持っていて、そんな仲間と一緒にサービスを創れることも喜びであり、やりがいですね。

Q.これからの目標はどんなことですか

「生きがいを持つ」というのは「自分には、まだ出来ることがある」と感じられる体験を重ねることが大切だと感じています。
身体的な衰えで諦めるのではなく、高齢者の方が持っておられる知識を活用して、若者や子どもたちに何かを伝える営みをすれば「役に立てた」という実感を持っていただけると私は思います。そういった交流の場としてもこの古民家を活用し、古きよき日本の伝統や知恵を次の世代にも伝達していける場にするのが目標です。

平見怜子さん(保健師・看護師・生活相談員) 
古民家デイサービス:セカンドハウYEAH YEAH YEAH 代表理事
セカンドハウYEAH YEAH YEAH>>>

※本紹介は、メヂカルフレンド社「クリニカルスタディ」2013.8月号に掲載されたものです。

“子どもを育てる”視点で小児専門の訪問看護ステーションを設立

Q 看護師になろうと思ったきっかけは?

起業3子どもの頃は体が弱く、受診のたびに怖い思いをしていた私は、看護師に対するイメージそれほどいいものではありませんでした。しかし小学6年生の時に虫垂炎で入院し、看護師のイメージが一変。術後の痛みと不安な気持ちでいっぱいの私に対し、担当の看護師さんはずっとお腹をさすって、寄り添ってくれたのです。その対応で痛みも気持ちも和らいぎ、看護師の手は魔法のようだと思って看護師の持つ力を実感。それがこの仕事に興味を持ったきっかけです。
また、中学生の時に叔母が他界したのですが、当時の私は「死」について深く考えることはなく、ただ怖いという気持ちしかありませんでした。しかし余命3か月と宣告されてからの叔母の生き方を目の当たりにし、最期の時間は神様が与えてくれた大切な時間。その時間を有意義に過ごせるようにお手伝いが出来たら幸せだと思ったのです。そして中学を卒業する時には「看護師になろう」と決意していました。

Q 心に残る看護の場面を教えてください

看護師になり、最初に就職したのは神経難病の患者さまを受け入れる筋疾患・重症心身障害児のお子様が療養する病院。現在の医療では治療方法が見つかっていない、筋ジストロフィーなどの患者さんがたくさんおられる病院でした。
当時の私は、回復が見込めない患者さんを目の前にして「可愛そうだ」という感情しかなく「何とかこの人たちの力になりたい」という気持ちだけで看護をしていたように思います。病棟には小児もたくさん入院していたのですが、ある日、ある患児の状態が悪くなり「看護師さん死にたくないよ・・・」と言って私の手首を握りながら亡くなったのです。急なことで、お母さんは最期の時に間に合いませんでした。
進行性の疾患を持つ子どもにとって、時間は何より貴重です。その大切な時間を家族と離れて過ごし、家族に触れることなく逝ってしまった子どもの気持ち、そしてわが子を看取れなかったご両親の気持ちを想うと居たたまれない思いがしました。
そのころでしょうか、「病気を持つ子どもたちが家庭で過ごせる社会をつくりたい」という気持ちが私の中に芽生えたのです。

Q 訪問看護をしようと思った理由は何ですか?

日々、神経難病のハンディキャップを背負った子どもたちを看護していくなかで、「正常な子どもの発達を知ることも大切だ」「一般的な小児疾患を持つ子の看護も勉強したい」と思うようになりました。
そこで、子どもの専門病院に転職したのですが、入院中の子どもたちは、家族と一緒にいる時間は、独りの時と表情が違うことを目の当たりにしたんです。そして「やはり子どもは家で育つのが一番だ」という気持ちが強くなり、そんな支援をしたいと考えるようになりました。
しかし看護師を続けるうちに、そんな気持ちは薄らいでいき、一般病棟病院や高齢者の介護施設で看護師・ケアマネジャーとして働いたのですが、ある日のこと「小児看護の経験を活かして子どもの訪問看護やってみたら?」という言葉をいただく機会がありました。その時私はハッとして「そうだ!私は病気を持つ子どもを家に帰したいと思っていたんだ!」という気持ちがよみがえったのです。そしてしばらく考え、小児専門の訪問看護をしようと決めて準備を始めることにしました。

Q 初めに起こした行動を教えて下さい

まずは資金を集めると同時に、経営の勉強を始めました。また「訪問看護ステーションはどうしたら設立できるのだろう?」と役所に問い合わせ、一つひとつ疑問を解決しながら水面下で準備を進めました。株式会社を設立することを決め「よしやろう!」と決意してからラストスパートは半年。念願の小児に特化した訪問看護ステーションを立ち上げたのは2012年のことです。
当社の社名は「Ange plume:アンジブレムアンジュプリュム」。これは「天使の羽」という意味で「親鳥が羽で覆って子どもを大切に育てられるように」という願いを込めた社名です。

Q 看護で大切にされていることは何ですか?

起業3_2疾患を持つ子どもたちが家庭で過ごし、その子のペースで発達できるように、私たち看護師はお母さんを支え、子どもたちの健康を護ります。
当、ステーションのこだわりは「育む」ということ。医療だけではなく、養育支援に力を入れています。「障害があるから出来ない」とあきらめるのではなく、障害があってもできる遊びを取り入れながら、心も体も発達できるようサポートするのが私たち看護師の役割だと考えています。
脳死状態のお子さんでも、家族と過ごしていれば24時間の中で変化があることがわかります。自宅というのは子どもが持つ生きる力を惹きだしてくる不思議な力があるということを、看護の中で実感しています。

Q 看護のやりがいとこれからの目標は?

家が小さな病院になるのではなく、子どもたちが育つ場所になるように、ご家族の気持ちにも配慮して、ご両親が子どもたちに心穏やかに関われるようサポートするのも私たちの役割だと思っています。
私たちは、家庭の主役はご家族。その家族の一員として存在する子どもたちを一緒に育てているという気持ちで訪問看護をしていますが、そうしていると、反応がなかった子に反応が見れることもあるんです。そんな時は「私たちがやっているのは間違いでない」と思って、大きなやりがいを感じます。
これからの目標は。虐待を受けた子どもたちや、そのご両親の心をサポートすること。どんな子でも家庭で育てる社会を作りたいという希望に向かい、看護の幅を広げていきたいと考えています。

多田由美さん(看護師)
株式会社Ange plume 代表取締役
株式会社Ange plume>>

※本紹介は、メヂカルフレンド社「クリニカルスタディ」2013.12月号に掲載されたものです。

病院勤務を経て、助産院(助産所)を開設された助産師

Q,なぜ看護師になろうと思われたのですか?

起業4A,私が産まれるときに母がお世話になった産婆さんは、私が小学校や中学校に入学するという節目にはいつも顔を見せて私の成長を一緒によころんでくださいました。私が高校生の時、父が他界したのですが、その時も産婆さんは駆けつけてくださり、私の傍で辛い私の心を無言で支えていただいたように思います。
そんな風に、私がこの世に産まれて初めて出会った人である産婆さんは、私の心の奥深くにいつもいてくれた気がして「私も誰かのこんな存在になりたい」と思ったのが今の仕事を目指すきっかけでした。
また、父が亡くなったあと。専業主婦だった母は途方に暮れました。そんな母を見て、女性でも自立できるよう手に職をつけようと考えたのが、助産師になることを決心する大きな理由になったのです。

Q,初めは病院に勤められたのでしょうか?

A、はい。助産師になった当初は病院で働きました。その後結婚し、子どもが出来て病院を退職。子育てに専念した時期もあるのですが、子どもの成長に合わせてパート勤務から現場復帰をしました。
私がお世話になった助産師学生時代の恩師が助産院(法的には助産所といいます)をしていたので、そこを手伝うようになり、病院ではなく助産院での助産に従事していました。

Q,助産院とはどのようなところですか?

A,医療処置が必要ではない、異常のない妊婦さんを受け入れて自然なお産をするところです。家庭的な雰囲気の中で、お母さんやお父さんが求めるスタイルで赤ちゃんを産むことをお手伝いします。
助産院では、妊娠中の異常がないかを定期的に診察すると同時に、お産を自分の事として捉え、自信を持って「自分の力で産む」という強い気持ちで出産に挑めるように心の準備をお手伝いします。そして臨月になり陣痛が始まったら、お母さんの産む力と赤ちゃんの産まれようとする力を最大限に惹きだせるように、旦那さんやご家族を含めてみんなで応援します。
家庭分娩を希望される場合は、陣痛が始まったら私たち助産師がお家に伺って助産をするんですよ。(心友では家庭分娩は取り扱っておりません)
また、嘱託医と提携し、異常があればすぐに診察を受けられる状況をつくることと、妊娠中4回の健診をお願いし、医師の眼でも判断を受けることで妊婦さんの安全を保障します。

Q,起業しようと思われたきっかけは何ですか?

A,助産院で働いていたころ、私の恩師である当時の院長からたくさんの事を教わりました。院長が体を壊して助産院の継続が厳しくなったときに「あなたは手の中に技術をつけたのだからその技術で生きていきなさい」という言葉をいただきました。
その言葉を重く受け止めた私は「自分の力で生きていこう」と決心して、新たな場所で助産院を開業し、今度は私が院長になりました。

Q,どんな気持ちで開院されたのでしょう?

A当院の名前は「心友助産院」。ここでお産をしたお母さんが困った時にはいつでも訪れられる場所、心の友のような存在になりたいという想いで開院し、だから「心友(こと)」という名前を付けました。
助産師は、赤ちゃんがこの世で初めて出会う人。新たな命に最初に触れるのが私たちです。それはこの仕事の醍醐味であり、だからこそ学び続けて知識を高め、責任をもって命に向き合える自分であり続けなければならないと重圧も感じています。

Q,日ごろ心がけていることはありますか?

起業4_2A,私が大切にしているのは、お母さんの「自分の力で産む」という強い気持ちを惹きだすこと。痛くて逃げ出したくなるお母さんの心を支え、全力を出し切れるよう声をかけます。また「もう外に出るときが来た」と思った赤ちゃんが、子宮の外に出ようと一生懸命出す力とお母さんの力を合わせ、そしてその力にお父さんや家族のパワーを注ぎ、みんなの心がひとつになって赤ちゃんの誕生場面が迎えられるようサポートすることを心がけるようにしています。

Q,この仕事のやりがいを教えてください

助産院は自然な形でお産をします。分娩台ではなく妊婦さんが望む場所・姿勢で、胎児と妊婦さんを中心に家族が取り囲み、みんなが必死になって力を出し合って赤ちゃんの誕生を待ちます。そして産まれた瞬間、周りの空気が変わって新しい生命の誕生を全員が心からよろこび合う、この瞬間に出会えることがこの仕事のやりがいです。
助産師は、神秘的な生命の誕生に出会える素敵な仕事であるとともに、新たな命を預かる責任の重い仕事です。それに加えて助産院の責任者という重圧もありますが、ここで産まれた命がいろんな世界に羽ばたいてくれると思うとワクワクしますね。

西川佐稲子さん(助産師 看護師)
心友(こと)助産院 院長
心友助産院>>>

※本紹介は、メヂカルフレンド社「クリニカルスタディ」2013.5月号に掲載されたものです。

「後悔のない最期の時間と自宅の看取りをサポートしたい」と考え起業

Q 看護職を目指したのはなぜですか?

起業2子どものころ、一緒に暮らしていた祖父が突然寝たきりになり、私が小学5年生のときに他界しました。後を追うように祖母も1年後に亡くなり、母は何かにすがるように宗教に傾倒していきました。私が高校生になっても祖父母の形見はそのままで、母はずっと両親の死を受けいれられずに苦しみ続けているのだと感じていました。
看護系大学に進学しようと決めたのは、母の苦しみの正体を理解したいという思いから。看護師になって病院で勤めたいという気持ちは待たない学部選択でした。

Q 大学時代の学びを教えてください

大学でさまざまなことを学ぶ中で、次第に母の苦しみの正体がわかってきました。母は、あまりにも祖母が突然亡くなったために「感謝」の気持ちを伝えられなかったのです。もはや「祈る」ということでしか両親に感謝を伝えられないから、宗教にすがったのでしょう。母が宗教に傾倒していくことが嫌だと思っていた私ですが、母からそれを奪うことはやってはいけないこと、それも受けいれて、母を看ていこうという決意が私の心の奥で次第に強いものになっていきました。
そんな自己の経験から、医療では取り除けない痛み、『心』『家族』『社会』などに関わる、人の痛みの問題に取り組みたいという気持ちが芽生え、それが今の仕事につながっています。

Q 起業のきっかけを教えてください

高校3年のころからいつかは起業をしたいという希望を持っていましたが、大学に入ると「すぐにでも起業したい」という意識に変わり、ライフセーバーのアルバイトをしながら起業への準備を進めていきました。
医療福祉業界での起業を考えていたので、まずはNPO法人で精神障がい者向けの就業支援に携わりました。そのとき、志はあっても経理や財務、経営のノウハウがなければ継続的に事業として成立できないことを痛感しました。また、自分は看護師として目の前の人を助けるのではなく、志を持って看護に打ち込む人たちを助けるような仕事がしたいとも思うようになったのです。
そんな経験を積みながら、大学から資金を得てボストンへ行き、日米の精神障がい者支援の実態について調査分析をして卒業論文にまとめました。そして大学を卒業して1年間、医療系の企業で営業を経験したのち、23歳で起業しました。
起業の直接的きっかけは、友人にエントリーを勧められた社会人向けビジネスプランコンテストへの出場です。参加した230組の中で最優秀賞を頂き、多額な資金を必要としないビジネスモデルだったので迷わず起業の道を選びました。

Q どのようなビジネスなのですか?

起業2_2私の会社は、慣れ親しんだ家で最期の時を迎えたいという患者さんや、自宅で家族を看取りたいというご家族に対して、看護師が自宅に伺い、その希望を叶えるのが仕事です。
私は「両親を満足して看とれなかった」という後悔を引きずって生きる母の姿を目の当たりにした者として「余命宣告を受けてから最後の親孝行を実現する会社になります」というビジョン掲げ、残されたご家族が、思い出や亡き人の存在に見守られて背中を押されながら人生を歩めるようにサポートをしています。
具体的には、余命3カ月と宣告され、自宅療養を望む方にお申し込みをいただいて、専門知識を持つ看護師が患者さんやご家族とどんな最期を迎えたいかを話し合います。そして希望を叶えるために、必要に応じて看護師以外の職種の人と協力しながら患者さんやご家族を助けます。一般的に、訪問看護には医療保険や介護保険が使えるのですが、公的な保険を使って出来る支援は限られます。そのため、保険だけに頼らず、ご希望に応じた看護をオーダーメイドするのが当社の仕事です。

Q これからの目標は?

私は、日本では「死」への準備教育が遅れていると感じています。日本はまだ「死」に対してオープンに語り合える社会ではありません。だから私は、終末期教育に特化したエンディングコーチ協会を設立するとともに、「おくりびとアカデミー」という、納棺師(湯灌師)を養成する学校を立ち上げました。命の終焉に寄り添い、エンディングノートや人生の棚卸しなど、日本の社会がこれまで重要視していなかった「死」への準備がお手伝いできる人を増やしたい。それが私の願いです。
誰もが逃れることのできない「死」と向き合って、人生で一度きりの幕の引き方を、もっとオープンに語り合える社会をつくっていきたいと思います。

高丸 慶さん(保健師・看護師)
株式会社ホスピタリティワン 代表取締役 
一般社団法人エンディングコーチ協会 代表理事
株式会社おくりびとアカデミー 取締役兼校長
株式会社ホスピタリティワン>>>

※本紹介は、メヂカルフレンド社「クリニカルスタディ」2014.1月号に掲載されたものです。